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長崎東海 先生 顕彰碑  除幕式/平成29年9月24日(日)
 
俵津地区町民運動会の開催前に、長崎東海先生の曽孫、玄孫、西予市長、明浜小学校校長、児童会長、PTA会長他関係者及び地域住民を迎え顕彰碑の除幕式を行いました。
明治・大正時代に高知県出身でありながら俵津の為に私財と共に真心を投入し『我が故郷俵津』の発展に寄与された長崎東海先生、そんな東海先生のバイタリティー溢れる活動を想像しながら何か晴れ晴れとした気持ちにさせてくれた除幕式になりました。

明浜小学校校庭の二宮金次郎像の隣りに長崎東海さんが寄付した門柱があります。
門石ノ由来
明治四十五年 当時ノ医師長崎東海氏ガ東和病院ノ創立十周年ヲ記念シ 大浦部落ノ平畑二所在シテイタ俵津小学校ヘ寄贈サレタモノデアルガ 昭和十五年 小学校ヲ現在地ニ移転シタタメ 翌十六年平畑ノ旧校地跡ヲ毛利マサエ、田中ユリエ両氏ニ売却シ 以後門石モ両氏ノ所有トナル 昭和四十一年町教育委員会ノ要請ニヨリ明浜東中学校ヘ寄贈 昭和六十三年再ビ小学校ニ移リ現在ハ小学校ノ管轄下ニアル
 平成二年 記  (原文は縦書き)

赤ひげ先生の贈り物
これは、校門柱です。こう彫られてあります。
(右柱) 東和病院創立十周年記念寄附
(左柱) 明治四十五年四月 院長長崎東海

これは、大正元年(1912年=明治四十五年は七月三〇日まで)八月長崎東海先生が、当時大浦平畑地区にあった俵津尋常高等小学校に寄附されたものです。価額は、当時の五十円ほどだったそうです。
長崎東海先生は、こんな方でした(『明浜町誌』昭和61年刊より)。
 
長崎東海(1863~1928)
土佐の松葉川村(現窪川町)出身。「わしが目を閉じたら、骨は野福峠辺りの見晴らしの良い所に置いてくれ」と語り、俵津の人となって村を愛した人で、故にお大師様の墓地に墓がある。
文久三年(1863)一月二十九日生まれ。俵津に東和病院を開業したのは、東海四〇歳のときである。
外科医術に優れ、村内はもとより郡内外からも患者が多く、多忙の中にも研究を怠らず年一度は上京して母校に新医術を研修して治療に当たっていた。「巧言して患者を迎えず、去る者は追わず、来る者は拒まず、貧病人は銭取らず」であった。また学童にトラホーム患者の多いのを憂い、無料で治療に当たっていた。
大正一四年七月十二日にNHKのラジオ放送が開始されたが、その年の十月、東海は東京から舶来の「ホーン型ラジオ」を携えて帰村、「文明の利器じゃ、東京の話がここに聞けるじゃー」と言って、みんなを驚かした。これが大変な評判で連日満員のお客さんであったという。 
政治にも関心が深く、村会議員、郡会議員にも就いていた。さらに東海の特筆すべき業績に、俵津脇の沼地一・五ヘクタールを埋めたてた新田開発事業がある。俵津の人々は感謝と尊敬の念を込めて、現在もその姓をとり長崎新田と呼んでいる。将来公共施設をつくる考えであったが志半ばにして、昭和三年二月二十五日、六十六歳で生涯を閉じる。現明浜東中学校の校門の石柱は、元俵津小学校建築に際し東海が寄贈したものである。

 さあ、子供たち! この門より入って未来へ飛び立て ‼︎

東和病院にて左から三人目

  東和病院(俵津)と思われる
  卯之町病院(東海開院)
  人力車上(輪車)の東海先生 往診
 

   寄贈された門柱

   顕彰碑

   門柱の由来

  顕彰碑除幕式

 
 
除幕式の模様他