Nofukunosato Tawarazu

「私の映画案内」(第十六回)「不都合な真実1&2NEXT」

 
 
 前回お伝えした映画の、続きのお話を今回もしようと思います。
 
 だが、その前に改めて、温暖化って、何?どんな影響が?とお考えの方に簡単にご説明します。ほんと簡単に。皆さん、冬、夜寝る時寒いですよね。毛布の上に厚目の布団重ねますね。この布団がつまり地球の大気なんです。熱を逃がさないように厚目の布団を重ねる事により中は暖かくなります。地球も同じく太陽からの熱エネルギーを大気により中に閉じ込めて暖かくしているんです。どれくらい?にお答すると、もし大気がない場合の地球の平均温度は-18°C。今現在の地球の平均温度が+15°Cですから+33℃、温度を上げているのです。この大気の役目の事を温室効果と言います。つまり布団を重ねる程、中が暖かくなるように、何かで大気が厚くなると熱エネルギーが逃げにくくなり、温室効果が強まり、暖かくなる。これが温暖化です。
 
 温暖化の最も大きな原因は、二酸化炭素と言われています。私達人類が産業革命以来、大量に放出し続けた物質です。物を燃やせば必ず出るとても厄介な物です。でも自然界では通常、植物の光合成や海水の中に吸収することに依って、一定の割合を保たれるようになっています。ですが、映画の中でブッシュ政権が報告書の公開を禁止した事が描かれていましたが、その報告書の一つを作成した学者がうテレビに出演し、こう言いました。(これ実話)「ハワイの山頂で観測された二酸化炭素の量が人類史上最高の値を示した。今すぐに二酸化炭素の排出を全てストップしない限り、自然界が吸収できる限界点を越え、温室効果ガスは滞留し続けるだろう。結果これから人類は大規模な気候変動に見舞われ続けるようになり、文明はやがて緩やかに滅びていくと思う」と、こう言ったんです。信じられますか!私達人類に未来はない、と彼は言いきったんですよ。皆さん、どうします。メキシコの国境に壁なんか作ってる場合じゃないでしょう!
 
 アル・ゴアは映画の中で、再生可能エネルギーを高く評価し、100%再エネに切り替えた都市や再エネの新しい技術を紹介しています。私も再生エネルギーの普及には賛成ですし、パリ協定に依って新たな二酸化炭素の排出が禁止された以上、再エネしか道はないと思うのです。でも本当に再エネはメリットばかりでデメリットはないのだろうか?その一つの例として、現在のドイツを見てみたいと思う。少し前、ドイツで電力難民と言われる人々が存在していることを聞いた方もいるでしょう。高騰する電気代が払えず、電気を止められた人々のことを言います。北海道と同じ緯度にあるドイツで、電気を止められたら死活問題です。でも払えないのです。皆さんの冬の電気代は幾らでしょう?ドイツはその数倍するのです。何が高いのか?基本料金は実はほぼ同じくらいなのです。貴男の電気の内訳を見て下さい。再エネ促進金と言うのがあります。再生エネルギーの買取や施設の建設や補助に掛かる費用を分担しているのです。これがドイツではとても高いのです。原発を廃止して、大規模な風力発電施設を黒海に作ったドイツは、再エネの買取りや建設に、意欲的に取り組み、個人の再エネの買取りにも高い費用を払っています。再エネを促進させる為です。その結果、電気代は上がり続けるのです。この様に再エネに進めばドイツでは当然、二酸化炭素の排出量は減っている筈だと思うでしょう。ところが違うのです。過去10年排出量はほぼ横ばいなのです。何故かと言うと、電気は溜められないからです。普段はどこかに溜めていて、必要な時、小出しに出来るものではないのです。風力発電では賄いきれません。じゃあ、風力発電を増やせば良いじゃないか、と考えますよね。でも風力は必要のない時も発電するんです。その時、当然電気は余ります。余った電気をそのまま送電すれば電気は過剰になり、設備はクラッシュします。そうならない様、ドイツではどうしているか?隣国ポーランドに流しています。それも有料で、ポーランドが買ってる?いいえお金をドイツが払って引取ってもらっているのです。その費用も当然国民の再エネ負担金の中に入ります。かくして、再エネは進むが電気代は上がり、二酸化炭素の排出削減は進まない、という事態に落ち入る事になる、と言う訳です。
 
 じゃあ、どうするの?私も考えました。そして現実に即した考え方も必要だと思ったのです。私の考えはこうです。色々と意見もあるでしょうが、今ある原発を何とか可能な限り稼働させ、順次廃炉にして行く。その間に温室ガスの排出を極力押さえる技術を使い、火力発電を稼働させながら数を減少させる。一方で、送・発電を分離し、再エネの普及の為、促進と買取りを進める。これが電気料金の高騰を防ぎ、安全にエネルギーを使用出来る道ではないかなあ、と思うのです。そこまで考えて、ふと気づきました。これって、安倍首相の新エネルギー計画とほとんど同じじゃない!なんで?私、安倍さんあまり好きじゃない、嫌いと言ってもいい!でも改めて思うんです。たとえ大嫌いな人でも、その人の考えが全部間違ってる、と言える訳ではない。自分から見て正しい、と思えるなら、嫌いでな人の考えも尊重するし、すべきだと思う。それが大人の態度だとおもうんですよ、私は。
 
 ではゴキゲンヨウ・・・・。

 
 
 
 
 
「私の映画案内」(第十五回)
「不都合な真実1&2とダウンサイズ」

 
 皆さん明けましておめでとうございます。お元気ですか?私も元気です!
   ところで、年末「紅白」見ました?石川さゆりとギターの布袋くんのセッション凄かった!最後のユーミンと桑田くんのデュエット、まさに大人のデュエット!久し振りに大人の紅白を見た気がした。今年も見よーっと!
 さて、映画「不都合な真実」1と2ですが、正月早早このような映画を取り上げても良いものかどうか迷いました。しかし、この映画の中で何度も繰り返し言われているように、我々にはもう時間がない!今すぐに行動を!に押され、あえて取り上げます。
 
 このドキュメンタリー映画の製作者と監督の「アル・ゴア」は皆さんもご存じと思います。元アメリカの副大統領で、オバマの前のブッシュ大統領と大統領選挙を戦った人物です。彼は選挙でブッシュに敗れましたが、善戦をしました。勝敗の行へは最後まで分からず、最後にあの有名な「フロリダの戦い」で決着がついたのです。結果ジョージ・ブッシュはアメリカ大統領史上、初めての最高裁が決定した大統領となりました。この騒動の顛末を描いた映画があります。その名も「リカウント」(再確認)という映画です。一度見て下さい。ほんと、何でもありで凄いです!
 
 環境保護派のゴアが敗れ、ロナルド・レーガン以来の新自由主義者のブッシュが勝った結果、アメリカ政府内の環境保護派はほぼ全員一掃されました。それから以後、保護派に有利な書類や報告書は改ざんされ、海洋気象局等の白書も公開されなくなりました。これらは全て映画「不都合な真実」パート1の中に描かれています。映画の中でゴアは温暖化がいかに危険なことであるか、又、人類の存続すら危ぶまれれる事態であるかを、数字を揚げて詳しく説明しています。そしてその数字に対する、複数の政治家や、識者と称する人々の冷ややかな反応をも追っています。
 
 彼らのその冷笑にも似た冷ややかな反応を見る時、私はなぜか一人の古い政治家を思い出します。それは第二次大戦前の英国首相チェンバレンです。チャーチルの前の英国首相だった彼は妥協はしたが、拒否すべき時に拒否はしなかった。国民の多数が戦争反対を支持したとは言え、内政不干渉を貫きスペインでファシストと戦う民衆や民主政府を見殺しにした。あのヒトラーに対して、彼の欲しがる物を与えれば彼は満足して我々の仲間に加わるだろう、といって、チェコのズデーデン地方の割譲に同意した。彼はファシズムを脅威とは感じず、理性ある集団と捉え信じていた。その結果、世界は破滅の一歩手前までいってしまった。“歴史は繰り返される。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として”カール・マルクス。
 
 映画「ダウンサイズ」マッド・デイモン主演、は近未来のSF映画です。近未来映画の傑作で「ミクロの決死圏」という映画がありましたが、あれと同じで人間を1/10サイズに縮少した社会の話です。何の為に縮少するか?地球と人類の持続的な維持の為にです。人間が1/10になれば使う資源も1/10かそれ以下に、廃棄物もそれ以下になります。使う資源が1/10ですから、個人の持つ資産は10倍かそれ以上に換算されます。生活も変わります。信じられない豪邸が欲しいと思えば、普通世界の豪華ドールハウスを購入するだけでいいのです。最初にノルウェーの化学者が生み出したダウンサイジングの技術は瞬く間に世界中に普及します。何が起こったか?皆んなダウンサイズした?いいえ、金持ちはダウンサイズを拒否しました。必要がないからです。普通世界で金持ちなのだから、たとえ資産が10倍になっても生活そのものは変わらない。だったら今のままで良い。ダウンサイズする必要はない!となった訳です。そして彼らは変わらず資源を浪費し廃棄物を出し続けるのです。技術に飛びついたのは、持たざる人々と独裁者たちでした。持たざる人々は食う為にダウンサイズします。普通界のパン一個で一週間食えればダウンサイズしたくなるでしょう。でもダウンサイズしても彼らには元々金は有りません。仕事もないのです。だから彼らは豊かな国を目指し相変わらず密航するのです。辿り着いた豊かな国で、彼らはスラム街に住み、豊かなダウンサイズ人間に雇われ、人の嫌がる仕事をして生活をするのです。かくして貧富の差は固定します。ダウンサイズが社会問題の何の解決にもならないのがお分かりでしょうか?技術の最悪な使い方をしたのは独裁者達です。彼らは反体制派や反対者を片っ端からダウンサイズします。刑務所が受刑者で満杯になる事はありません。小人の言う事に耳を傾ける普通人はいません。最早世界が違うのです。ダウンサイズが刑罰なら普通の人々はダウンサイズを拒否します。独裁者の思うがままです。しかも殺す事にならないのだから世界から非難される事もない。人道的に対処したと胸を張って言えるのです。どうです皆さん。ダウンサイズ賛成ですか?それとも反対?
 
 この映画のラスト、人類は滅亡の危機をいよいよ迎えます。ダウンサイズの一部の人々は地下に巨大施設を作り、そこで危機が去る数千年間人類として生存し、存続して行こうとします。主役のマッド・デイモンはその地下施設の入り口で悩みます。同行した友人が彼に言います「入るんじゃない、中の奴ら、その内皆んなで互いに殺し合いを始めるさ、人間だからな」。マッド・デイモンはそれでも・・・・・・・。
  後は映画を見てね。「不都合な真実」1&2はこの後も続きます。
 
それではゴキゲンヨウ・・・・・・。

 
 
 
 
 
 
「私の映画案内」(第十四回)「ホラー」

 
 
 さて皆さん、平成最後の年の瀬となりました。そこで今年最後として「ホラー」映画の話をします。
(年末とホラー、何の関係がある)とお思いの方もいるでしょうが、それは置いといて、とにかくホラーの話です。
 さて皆さん、「サンタクロース」って怖いって思いません?(馬鹿な)って思った貴男、考えてみてくださいよ。真夜中に貴男の家へ断りもなく不法に侵入するんですよ。しかも貴男の可愛いい子供や孫の枕元に立つんですぞ!サンタが何もしない、と貴男は断言できますか。ママにキスするサンタだっていると言うじゃないですか。孫のピンクの頬っぺにキスしてるかも知れないんですよ!キスならまだしも・・・・(いかん、ちょっと錯乱してきた)。気を取りなおして、とにかくサンタは変だ。住所不定、無職の癖に、世界中の良い子にプレゼントを届ける、そんな資金がどこにあるんだ!しかも良い子とは何だ。もらえない子は悪い子なのか!もらえなかった子の気持ちを考えた事がサンタよ!君にはあるか!もらえなかったばかりに、私が子供時代、どんなに傷つき自虐的になったか、君に分かるか!君のやってる事は・・・・(いかん、さらに錯乱してきた)。とにかくこの辺で本題に戻そう。
 
 19世紀末、ヨーロッパで恐怖小説が流行しました。特にイギリスで盛んに流行りました。小説の舞台となったのは、古城・廃墟・地下道・洞窟・屋根裏・などで、これを総称して、ゴシック小説といいます。ゴシックには元々、野蛮な様式と言う意味があり、そこから来た物かも知れません。有名なのは吸血鬼、アイルランドのB・ストーカーが書きました。他に狼男や怪人などで、これらの小説を元にした映画が、ゴシックホラー、あるいはゴシック調のホラー映画といわれるものです。アメリカで女の娘が目の回りを黒く塗る化粧をすることがありますが、あれをゴシックと呼ぶのも、これらの映画の影響からきています。
 
 ここで皆さんに理解して欲しいのはヨーロッパや新大陸に深く根差している、キリスト教の精神世界の事です。この世界では、神が存在し、反対に悪魔も存在します。キリストを信じるものが人間であり、信じないものは野蛮な、悪魔の化身なのです。昼は神の世界であり、夜は悪魔の世界なのです。もう分かりますね。吸血鬼が日光を嫌い十字架を嫌う理由が。彼らは実在する悪魔の化身として描かれているのです。だから映画で描かれている彼らには身体があるのです。しばらくの間ホラー映画はこれが主流でした。そこに出て来たのが「エクソシスト」です。実体のない悪魔が取りつき、人間を悪魔に変身させると言う話です。絶対に有り得ない、と言えないのが怖さの理由です。そこえ、一人の大学生が仲間と一緒に、絶対に有り得ないがあったら怖い、と言う話を映画にしました。ジョージ・A・ロメロという大学生が作った「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」と言う映画です。ゾンビの誕生です。彼のこの映画は最初ドライブインシアターで封切られました。道路は入場待ちの車で大渋滞を起こし、一週間後には全米上映となりました。ゾンビと言うのはリビングデットの言葉の版権をロメロが持っている為、苦しまぎれにハイチ島のゾンビ伝説から作り出された言葉です。
 
 ここでも理解して欲しいのはゾンビには魂がない、と言う事です。キリスト教世界では死ねば魂は地獄へ行くか、天国へ行くかの二者択一です。中間は彼らにはなかったのです。でも、もし魂が中間で彷徨っていたら、これもありえないが、有り得る話でしょう。それが日本人の作った「リング」と「呪怨」です。東映のVシネマの監督出身の二人は低予算でこの映画を作りましたが、本来見える筈のないものが見えてしまう恐怖、まさにロメロの映画と同じです。リングはアメリカでリメイクされ、呪怨と同じく大ヒットしました。
 
 以上、ホラー映画の流れを簡単に書いてきましたが、最後に話を変えます。皆さんは「吊り橋効果」って知ってます?カナダの二人の神経学者が行った実験を元にしています。彼らは、普通の橋と吊り橋の上に男性を立たせ、一人の女性に男性に対して話しかけさせました。その後、男性にその女性を好ましく思うか、聞いたのです。その結果、吊り橋の上に立った男性の方が、普通の橋の男性よりも3倍近く女性を好ましく思うと言う結果になりました。女性はすべて同一人です。懸命な方はお分かりですね。人は不安を感じるとアドレナリンを放出し、心臓が早くなり血流が増えます。それを脳が恋愛のドキドキと感違いするのです。その結果、好ましいと言う回答が増えるのです。少し前に流行った「壁ドン」、これもそうです。人は「パーソナルゾーン」を持っています。近づかれると不安を覚える近離のことです。壁ドンをされるとそれを犯され、不安になり、アドレナリンが出ます。結果、血流が増え、頬は赤らみ、心臓がドキドキします。それを脳が勝手に恋愛と感違いし、好意を持たせるのです。ね、見方によったら、人間って単純で、なおかつ面白く複雑な存在でしょ。皆さんにお勧めします。若者よ、お化け屋敷は必ず好きな娘と行くべし、出口では手をつないでるよ。倦怠期のご夫婦よ、年末、年始は二人揃ってホラー映画を見るべし。妻が悲鳴をあげる度、そっと肩を抱いてやりなさい。間違っても一緒に悲鳴をあげない事、ゆめゆめお忘れなく・・・・。
 それではゴキゲンヨウ。

 
 
 
 
 
 
 
「私の映画案内」(第十二回)「映画とは」

 
 
 皆さん、大変長い間ご無沙汰いたしました。色々事情がありまして、少数とは言え私のエッセイを楽しみにされていた方がおられましたら、まことに申し訳ないと思っております。事情は又の機会にでも新めて申し上げたいと思いますので、ご容赦ください。
 
 さて本題に入ります。皆さん12月1日が「映画の日」だという事をご存じですか。1896年、明治29年、神戸で日本初の映画が上映されたのを記念して設けられました。今から122年前になります。それから実に沢山の映画が上映されて皆さんの眼と心を楽しませてきたことと思います。そこで新めて皆さんに考えて欲しいのです。「映画」とは何でしょう?映画とは一体なにを映ずるものなのでしょう。私はこう考えるのです。映画とは基本的に人間の日常と非日常に於ける感情と心理を描くもの、と思うのです。なんだそれ!と思う方もおられると思うのでちょっと簡単にいいます。ボーイ(男)とガール(女)は日常ですね。ボーイとガールが出会ったとしたら、これは非日常なのです。映画ではこれをボーイ・ミーツ(出会う)・ガールと言います。ここから非日常になり、ドラマが始まるのです。言いかえれば、日常と非日常がうまく繋がり上手に融合した映画が、見て違和感を覚えない良い映画と言えるのです。
 
具体例を示しましょう。皆さんは「寅さん」をご存じですよね。フーテンの寅の物語は誰もが知る物語です。彼の日常は香具師(やし)つまり露天商です。人の集まる所に露店を出し、日本中を旅して歩きます。だから見知らぬ人と出会う機会もあり、そこで彼のマドンナと出会います。ボーイ・ミーツ・ガールです。ここから非日常が始まり恋のドラマになります。この映画の凄いのはここにさらに別の非日常のドラマが重なるからなのです。それは東京の団子屋・「とらや」です。とらやの人々にとっては「寅さん」のいない事が日常なのです。そこへ寅さんという彼らにすれば非日常の存在が出現する事により、事態は非日常へと移ります。ここで考えて欲しいのは実は寅さんにとって「とらや」に帰るのは彼にとっての日常なのです。全国を旅する内の一つの行きつけの場所なのです。勿論故郷である事に変わりはありませんが、彼にとってはあくまでも日常の場所なのです。だからとらやのドラマは実はボーイ・ミーツ・ガールなのです。分かりますか。実に見事な日常と非日常の融合が!!山田洋次は天才的な脚本家なんですよ。
 
 もう一つ例をあげましょう。黒澤明監督の「七人の侍」です。この映画は冒頭の野武士が村を見下ろすシーンから始まりほとんど全編に渡って非日常の連続が続きます。それも日本映画とは思えない程、大胆で迫力に満ちたアクションシーンが展開されます。世界の映画の歴史上でも最高峰と言えるアクションシーンです。これを見ると誰もが黒澤はアクションの映画監督だと思うかもしれません。それも世界最高の。でも違うと思います。私は彼は最高のヒューマニストであり、彼の映画には人間に対する愛が溢れています。非日常の戦いの中で、農民や武士がそれぞれに持つ感情や心理、愛、憎しみ、怒り、苦しみ悲しみ、癒しがたい喪失感や絶望、そして喜び、ほとんど全ての感情が生き生きと描かれているのです。その象徴のような場面がラストシーン近くにあります。生き残った農民達が謡い踊りながら田植えをするシーンです。これはカタルシスなのです。少し説明します。中世イギリスでは悲劇を上演した後、必ず出演者全員がとても陽気な歌を謡い踊って観客を和ませました。これはギリシャのアリストテレスの考えに基づくもので、もとは浄化・排泄という意味です。悲劇を観て心の中に解消されないで残った悲しみや恐れを陽気な歌や踊りで排泄してもらおうとしたのです。アカデミー賞作品賞を取った映画「スラムドッグ・ミリオネア」をご覧になった方はご存知でしょう、映画の最後に出演者全員が駅のプラットフォームで唄い踊ります。これがカタルシスなのです。黒澤は多分計算し考えた上で、陽気な田植えの場面をラストに持って来ました。彼ら全員に、そして映画を観ている人々全員にカタルシスが必要だったのです。その上で主役の志村僑に、「勝ったのは彼ら農民だ」と言わせます。非日常の戦いの場でしか用をなさない武士よりも、踏み付けられ、虐げられ、搾取されてなお、大地にしがみついていきる農民こそ、そして日常こそが真の勝利者だ、とヒューマニスト黒澤は断言したのです。
 
 どうでしょうか。映画とは何か?が少し分かってもらえたのではないでしょうか。さらにくわえていうと、映画は非日常な世界だけではないのです。20世紀の終り頃世界中の関係者が公開された世界中の映画№1に選んだのは小津安二郎監督の「東京物語」でした。これはもうほんとに、老夫婦の東京旅行の始まりと終わりを、坦々と撮った映画です。それだけなのです。でも見て下さい。観たらきっと気付くはずです。人間の愛と存在の永遠性に。
 
 長くなりましたので今日はこのへんで。ゴキゲンヨウ・・・・・。

   前のエッセイへ